やっちゃば士の経営を楽しむブログ
やっちゃばに勤務するサラリーマンのブログです。
プロフィール

やっちゃばの士

Author:やっちゃばの士
井上敬裕
1972年生まれ
千葉県浦安市在住
岡山県出身
血液型O型
家族;妻、長女、二女、三女
趣味;クラッシック音楽鑑賞

とある青果会社の管理職をしています。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

カレンダー

02 | 2017/03 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

ブログランキング

FC2Blog Ranking

FC2Blog Ranking

ビジネスブログ100選

ユーザータグ

リンク

このブログをリンクに追加する

フリーエリア

ブログ内検索

RSSフィード

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

FC2カウンター

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

何もしないという意思決定
 鳩山首相が沖縄を訪問し、普天間基地の沖縄県外への移転について断念ともとれる発言をしたことについて、様々な意見が出ていますが、私は最初から「白紙撤回」という結果になることを予想していました。朝令暮改という言葉がありますが、今回のようなケースでは朝令暮改は「正しい意思決定」という観点において悪いことではないと思います。なぜなら、



間違った意志決定ほど甚大な被害をもたらすものはない



からです。民主党政権には政治理念も政治ビジョンも政治戦略もありません。そこにあるのは、政治戦術と政治戦闘があるのみです。彼らの共通の理念はただひとつ、「政権奪取」でした。しかし、選挙に勝つことによって「政権奪取」という目標は「政権維持」に変わりました。もともと政治理念がない彼らは、「政権維持のため何が必要か」という答えを「前政権路線の否定」に求めました。すなわち、


新しい政治=前政権の否定→存在感→政権維持


というイメージだけが先行する単純な思考・行動理念をその政治活動の拠り所にしたのです。このような行動をとれば破綻するのは目に見えています。これが企業だったら真っ先に潰れるでしょうし、戦略的な思考をする経営コンサルタントから見ればおそらくめちゃくちゃに見えるのではないでしょうか。

 私は政権を取ってからの民主党の政策を見ていると、パフォーマンスとしか思えないようなものがあまりにも多いように思います。ただこのパフォーマンスは権力によって現実に大きな影響を与えるのでたちが悪いです。ドラッカーはこういった意味のないパフォーマンスに対する警告として次のように述べています。


いかなる解決策があるかは問題によって異なる。しかしある一つの解決策は常に検討しなければならない。それはいかなる行動もとらないという解決策である。何もしないということは、いかなる行動にも劣らず立派な決定である。しかし、このことを認識している人はきわめて少ない。何も行動しないことによって、単に不愉快な決定を行なわなくてもすむとだけ考えている。こうした自己欺瞞を防止するための唯一の方法は、何の行動もとらないという決定によっていかなる結果がもたらされるかを列挙することである。(ドラッカー『現代の経営』上田惇生訳)

 



スポンサーサイト
監督の条件

 オリンピックの野球は、アメリカに負けて4位に終わってしまいました。トーナメントの難しさを誰もが実感したのではないでしょうか。先日、球場で王監督と野村監督がオリンピックの敗因について、会談した内容が報道されていました。

 この両監督はのコメントは全く対照的なものなのでした。敗者をかばう王監督。それに対して野村監督は辛辣な批判をしていました。野村監督の次の言葉が印象的でした。

「仲良しばかりを集めてもだめ」

 代表チームの監督は星野監督。コーチは山本コーチ、田淵コーチ、大野コーチとみんなセリーグ出身です。もちろん、パリーグ出身というやっかみもあると思いますが、セ、パ両リーグから代表選手は構成されているのですから、野村監督の意見に賛成です。

 ところで、私はオリンピックに限らず、ピッチャー出身の監督はどうなのかなと思っています。野手やバッターとしての一流の経験がないというのは大きなビハインドのように思います。特に攻撃面が弱いのではないでしょうか。ピッチャー出身の監督の攻撃は結構大味な感じがします。

 さて、会社の監督、経営者、リーダーについても同じことが言えると思います。営業だけしかやってこなかった人、現場しか経験がない人、どちらでも不十分です。営業の強み、痛みとともに、現場の強み、痛みがわかる人が最高です。営業の論理と現場の論理は相反することが多いのです。だから、弁証法ではないですが、すりあわせて最適の状態を作っていかなければ会社としてうまく回っている状態を作り出すことができないのです。

 それでは、経験していない世界をどうやって補えばいいのでしょうか。それは、想像力です。無から有を生じるわけではありませんが、目の前の事象、課題に対して、自らの経験と体験を総動員して、想像力を働かせ、新しい体験(アイデアや知恵、決断)を生み出すのです。自らの経験とは、今まで生きてきて体験したこと(直接的な体験)、本で読んだこと、人から聞いたことなど(間接的な体験)、想像できるものすべてです。直接的な体験は、間接的な体験の何倍も想像力を生み出す力があります。そして、新しい体験は前よりもっと強力な想像力を生み出します。

 
 想像力体験想像力体験想像力体験

 


課長の孤独
「課長がこんなに孤独な役職だと知っていれば、課長になんてならなかった」これは先日紹介した酒井穣さんの『はじめての課長の教科書』の反響のひとつです。よく経営者は孤独だと言われることがありますが、課長の孤独感というのは経営者の孤独感とは違った性質の孤独感です。

 経営者は自らの意志で事業を起こし、展開します。したがって、自らの意志で社長=経営者の立場を選んだのであり、例え自分の思いが社員に伝わらなかったとしても100%自分で責任をとる覚悟が出来ています。会社のことは自分のことであり360度回ってみても障害物にぶつからない自由さがあります。

 ところが、課長という立場は自ら好んでなるものとは言えないのです。他人の会社に入ると言うことは、ある意味自分の好きなことを犠牲にする、自ら好まない業務もしなければなないということになります。末端社員ならば、社員としての気持ちを上司にぶつければいいかもしれません。上司に責任をとってもらうという気楽さもあるかも知れません。ところが課長は「会社の上層部では現場の代表」であり、「現場では会社上層部の代理人」です。現場の苦労を経営幹部にはわかってもらえないこともあるし、会社の事情を末端社員にわかってもらえないこともあるでしょう。つまり、一番ジレンマに陥るポジションなのです。苦しくなれば「経営者ではないのだからいいだろう」という逃げの気持ちも生まれてくることでしょう。この前線隊長のようなポジションを充実したものにするためには、自ら課長としてどのような内容を身につけるかという内的な動機が必要です。課長級のレベルになると、給料などの外的な動機だけでは、このジレンマと前向きに闘うことは困難であると思います。おそらく闘いをやめて「妥協」にはいるはずです。

 自分の内的な目標は常にチェックする必要があります。期限を決めて、環境に流されないように、次なる跳躍の目標を抱いてこの孤独な期間を有意義に過ごしたいものです。

引越し
 今日は休日でしたが、事務所のレイアウトを変えるため、午前中は会社に行っていました。取引先のオフィスサービスの社長にお願いして2人で備品を運んだり、配線を組みなおしたりしました。小さな事務所ですが2人でするのは結構大変でした。

 私は○○長という立場で、部長と課長のような立場にあるのですが、事務所の使い方などを決める裁量権があるので、引越し作業も苦になりませんでした。会社員という立場なので、自分が心から好きな業務をしているわけではありませんが、裁量権を与えられるということは、業種を越えてある共通のやりがい、モチベーションアップのようなものを持たせる効果があるようです。引越しで真っ黒になりましたが、無給で休日の日に引越しを頼まれたら普通の社員ならいやな気持ちになるでしょう。

 さて、先日の『はじめての課長の教科書』で、課長は起業家の立場と同じだと酒井さんは書いていましたが、私はそのことを実感しています。会社というバックアップがあるかないかが大きな違いでもありますが、逆にそこのところを乗り越えれば起業家として成功する確率も高くなるのではと思うのです。

 最後に、H社長さん今日はありがとうございました。
人事は必要悪か?
 昨晩、人財開発の研究会に参加しましたが、その中に人事マンとして参加されている方がいました。その方は、「会社で人事のことをいつも考えていますが、考えれば考えるほどどれが正解なのかわからなくなる」というようなことを言っていました。

 規則やルールといったものは属する組織や集団が大きくなれば大きくなるほど、多く必要になってきます。個人から、家庭、会社と属する集団が大きくなるほど、自由に動けなくなります。なぜそうなるのか、それは集団に属する個々の利害が異なるからです。人間関係が利害を超えたもの、例えば「家族愛」のようなものがあれば、それで利害の対立を包むことが出来るかも知れませんが、集団が大きくなれば所詮他人同士の関係です。そこでは利害の対立がもろ出しになります。規則やルールがなければ収拾することが出来ません。

 NHKの教育子供番組に「ピタゴラスイッチ」というのがあります。その中に「僕のお父さん」という歌があります。歌詞の内容は正確に覚えていませんが「お父さん、お父さん、僕のお父さん、会社に行った課長さん、歯医者に行ったら患者さん、英会話学校に行ったら生徒さん、電車に乗ったら通勤客」(順番は多分合っていません)というような内容です。子供から見たらかけがいのないお父さんも、集団の中では集団を構成する一員にすぎません。ある意味、とてもドライに見えるかも知れません。お父さんがどんなにプラモデル作りが上手でも、「課長」「患者」「通勤客」という立場ではそんなことは一切関係ないのです。

 さて、話がちょっと飛躍したかも知れませんが、特定多数あるいは不特定多数の集団の中では、集団の中の個を上記のように割り切ってとらえる必要があります。手も足もすぱっと切って、升目の中に入れなければなりません。そうしなければ、組織、集団そのものが成り立たなかったり、その運営がうまくいかなくなったりしてしまいます。

 話が元に戻りますが、人間のいろいろな可能性を考えると、「この人はこうだ」と言い切ることは難しいのです。人間の可能性を説明する話として有名な「ジョハリの窓」があります。それによると、自分という存在を4つの領域から見ることができると言います。

①自分も周囲も知っている「自分」
②自分は知らないが周囲は知っている「自分」
③自分は知っているが周囲は知らない「自分」
④自分も周囲も知らない「自分」


 先ほどの組織人事ですが、確かに個人に対しての見方は限界があるので、適材適所の人材配置や、個人間の評価を絶対的に納得のいくものにすることは難しいと思います。規則とルールがなければある意味もっといい結果が出るかも知れませんが、それは非常に不安定な状態で、道路交通法がないようなものです。事故、衝突がないようにするためには規則とルールがどうしても必要です。個人はそのことを納得して受け入れるマインドコントロールが必要です。先ほどの④自分も周囲も知らない「自分」を開花する可能性だってあるのです。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。