やっちゃば士の経営を楽しむブログ
やっちゃばに勤務するサラリーマンのブログです。
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やっちゃばの士

Author:やっちゃばの士
井上敬裕
1972年生まれ
千葉県浦安市在住
岡山県出身
血液型O型
家族;妻、長女、二女、三女
趣味;クラッシック音楽鑑賞

とある青果会社の管理職をしています。

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ソーシャル・キャピタル
 前回のエントリーで、「子供は公共財」であると述べました。公共財と言えば、国や自治体などによって供給される公園、道路、消防、警察などの財、サービスのことを言います。子供が公共財だとすると、私たちは子供から便益を得ることができるということになります。短時間では便益を受けることはできませんが、長期的将来的に見れば多大なる便益を受けます。

 よりよき公共財を育てるためには、ソーシャル・キャピタルが必要です。


ソーシャル・キャピタルとは、人々が持つ信頼関係や人間関係(社会的ネットワーク)のこと
詳しくはウィキペディア参照


を言います。ソーシャル・キャピタルは昔から重要な要素でしたが、高度経済成長期を経て進んだ個人主義、物質主義、無関心主義の限界と破綻から、今後の社会の価値観のトレンドになっていくでしょう。いや、人間が関係性の中で存在価値を見出していく存在ならば、本来の価値観に帰るといった言い方のほうが適切かもしれません。

  最近読んだ2冊の書に、関係性回帰の方向に時代が流れつつあることが書いてあったのを思い出したのでちょっと上げてみます。

宮台信司氏の『日本の難点』
現代社会を述べるにあたって、「再帰性」というキーワードがなんども登場します。わかりにくい言葉ですが、正しい答えがない、ゴールがないといったような意味で私は捉えています。宮台氏はこの言葉の定義を述べていませんが、「底の抜けた世界」という表現をたびたび使っています。このような社会にあって、「他者へのコミットメント」が今後重要であると述べています。

三浦展氏の『シンプル族の反乱』
シンプル族とは、著者が作った言葉で、端的に言うと「ものを買わない消費者」のこと。シンプル族はお金がないわけではなく、自分たちの価値観に合うものにしかお金を使いません。他者との関係性を重要視し、財産の私有にはあまり価値を置かないといいます。著者はシンプル族がつくる社会を「消費社会」ではなく「共費社会」と名付けています。シンプル族の「住」ということで、コーポラティブハウスのことが挙げられています。

シンプル族に人気のあるコーポラティブハウス
人とのつながりを重視
子育ての観点からコーポラティブハウスを選ぶ
コミュニティの価値を重視


興味深いのが宮台氏も三浦氏も、「関係性社会」の対極にある概念として「モダン」という言葉を使っています。モダンとは直訳すれば現代、今風という意味なので、現代社会は「ポストモダン」ということになります。モダンは「高度経済成長期でいうところの進歩。経済的、技術的進歩に最も価値観をおく社会的概念」ということになります。

このように、ソーシャル・キャピタルが大きな価値を持ちつつあります。今後の「家族のあり方」「働き方」などを考える上で、外せない概念になるでしょう。

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怒れない大人 怒られない子供たち
 昨日のこと。私の自宅は角部屋で、窓のすぐ外は塀です。中学生数人が、その塀の向こうで野球をして遊んでいました。何度もボールが塀を越えて、我が家の窓に当たって庭に転がりました。中学生たちは、何の断りもなく我が家の門を勝手に開けて、ボールを拾っていたようです。

 私の妻は、この礼儀のなさを見るに見かねて、中学生を呼び止めて注意しました。

「家は小さい子がいるのでガラスが割れると危ないのでやめてよ。それに、人の家に勝手に入ってくるなんて失礼だと思わないの」

注意を受けた中学生は、口をポカンと開けて無表情に突っ立っているだけで、「すいません」の一言もなく、無言でボールを取って去って行きました。彼らは全く野球をやめる様子もなく、何度もボールは庭に入り、そのたびに勝手に庭にはいってボールを拾いにきたそうです。妻は怒って、バットを取り上げました。そうすると中学生たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ隠れました。その場に一人残っていた一人は

「僕ではない。あいつがやった。○○こっちにこい」

と隠れている友達のほうを指しました。

「学校はどこ、名前を名乗りなさい」

「××中の△△です。」

「嘘をつくのはやめなさい。さっき友達が○○と言ったじゃないの。それに××中はここの学区と違うじゃない」

この中学生も無表情に突っ立ったまま去って行ったそうです。


妻は呆れて、夜帰宅した私にこの出来事を話してくれました。「まるで怒られることにを知らないみたい。親も先生も怒らないないから、こういう子たちになるのよ。」妻の話を聞きながら、先日見かけた光景を思い出しました。

あるお父さん。自分の子供(男の子)が、目の前で2人の男の子にいじめられていました。男の子は泣きながら父親のほうへ走ってきましたが、父親は何もせず、いじめっ子たちにやられている自分の子供を見つめているだけでした。見かねた私の妻がいじめっ子たちに「自分たちが何をしているのか分かっているの」と睨んだらいじめっ子たちは逃げて行きました。

確かに「親や先生が悪いことに対して、はっきり悪い」と言えなくなっているのかもしれません。このような環境では子供はつけあがるだけです。これは、大人に対しても当てはまります。

悪いことを見て見ないふりをする人
悪いことを素直に認めて、謝ることができない人

怒られないで育った子供がそのまま大きくなった大人の姿です。


少なくとも、自分の子供には善悪の判断がはっきりできるように教育し、また自分自身善悪をはっきりと口に出して言うことができる大人でありたいと思っています。
権威の失墜
 ここのところ「麻生おろし」の報道がテレビを賑わせていましたが、両院議員総会を開かないということで、一段落着いたようです。それにしても、身内からここまでぼろくそに言われた総理大臣は歴史上初めてではないでしょうか。

総理大臣の権威とはなんだろうか

今回の一連の騒動を見て、そのように思わざるを得ません。小泉元総理のときは、郵政民営化に反対した議員は処分されました。麻生総理のリーダーシップの弱さの原因はどこにあるのでしょうか。小泉元総理と比べて

①カリスマ性がない
②側近、参謀が弱い

という点が目立ちます。①については言うまでもないことですが、②については、本当に不思議です。本来、自民党総裁の下には党三役がいますが、まったく総裁を守る立場に立っていないように見えます。反対分子に対して、本来はもっと強く出ることのできる立場にあるはずです。ところが、反対派議員は実力者が多いため、彼らを切れば自民党の議席が大きく減ってしまうので、強く出るに出れないのです。つまり、主導権(イニシアチブ)を反対派にとられてしまっているのです。

小泉政権は執行部がしかけた
麻生政権は執行部がしかけられた

全く逆の立場になっています。これは、小泉政権の時から一度もまだ選挙が行われていないことが原因です。つまり、小泉政権の影響力が脈々と流れているということです。農産物の味は土壌によって決まるように、小泉政権の土壌の中で誕生した麻生政権は、小泉派の影響力の輪から逃れる事ができないのです。

 自民党の総裁は党の選挙で選ばれます。したがって、党員、他の議員には「なかなか言いたいことが言えない」ところがあります。この党員たちへの従順と強いリーダーシップはバランスをとるのが難しいのではないでしょうか。党員たちの声を無視すれば支持率は下がりますし、従順になりすぎてもリーダーシップがないということで求心力が失われ支持率が下がります。党員を国民に置き換えてもこのことは同じです。このジレンマがあるからこそ、おそらく多くの総理が「バカらしくなって」辞任するのではないのでしょうか。

 総理の位置は絶対的ですが、影響力(効力)は相対的です。民主主義においては、各存在間の実質的なパワーバランス(実力、財力、人間力)が、ある存在の影響力(効力)を決定します。絶対主義から民主主義へ移行して120年。民主主義社会の中にあった絶対主義的なものが時代と共に徐々に消えていっています。総理という絶対的な位置の権威の失墜も時代的な流れでしょうか。父、母、先生、社長など絶対的な位置が簡単にひっくり返される世の中を、今回の出来事は象徴しているように私は感じました。
ロジスティクス考① 
 会社が年度末決算期を迎えました。資材の在庫が気になるこの時期ですが、以前と比べて在庫が少なくなりました。資材の在庫が減った原因として、

①資材の汎用化
②価格よりもロットを優先した仕入れ


を行ったことが大きいと考えられます。①、②もロジスティクスを考えると当然の選択です。

ロジスティクスとは、もともと軍事用語で「武器、弾薬、食料、衣料、医薬品など前線の兵士が戦うために必要な軍需品を供給し続ける活動」のことを指します。つまり後方支援活動のことです。これを会社に当てはめると、

在庫(商品、資材)の調達から顧客納品までの活動を一元的に管理する活動

ということになります。つまり、営業部、資材部、製造部などすべてのライン部門の活動を一元的に管理するのです。私の立場は、この3つの立場を兼務する立場なので、ロジスティクス視点を持たざるを得ないです。小さな会社でこそ、経験できる立場かもしれませんが、会社が大きくても小さくてもロジスティクス視点の重要性は変わらないと思います。

大きな会社では、これらの部門が独立しています。つまり、営業と現場が分かれています。ロジスティクスはこの両者にまたがりますが、どちらが主導権を持つべきでしょう。

営業は粗利を稼ぎ、欠品を避けることを優先する
現場は何よりも効率性を優先する

このように考えると、現場のほうがロジスティクス視点を持ちやすいと思われます。物流会社や物流部門にロジスティクスの名前がつけられていることが多いのもこのことを物語っています。しかし、戦争にたとえるなら、前線がいない後方支援活動はまったく無意味であるのと同じように、営業の弱いロジスティクスも無意味です。なぜなら現場は効率性を優先させてしまうために、顧客ニーズ、顧客優先の考え方が薄いからです。そこには、モラルハザードが潜在的に存在します。

相反する営業と現場の両方の立場に精通した人材

を中心にロジスティクス部門(担当)をおくことが望ましいと私は考えます。

「働く」と自己
 やまいもさんのブログ『大人の人生はおもしろいか』の「仕事とエゴ」というエントリーに啓発されて記事を書きます。やまいもさんはこの記事の中で経済評論家、山崎元氏のブログでの発言を取り上げています。

 「日本社会は働くことが人々のアイデンティティーになり過ぎている」という指摘は正しい。失業の際の喪失感が異様に大きいし、仕事を失うと自分を失ったように思うことが多いというのもその通りだろう。付け加えると、世間も、失業者・無業者に厳しい。こうした社会的な価値観は解毒する必要がある。働くことは大切なことかも知れないが、本人は好きで働いているのだから殊更に立派なことではないし、働かずに食えるなら、それはそれで大したものであって、他人がとやかく言うべきものではない。(『王様の耳はロバの耳』より)

 このことから、日本人の自殺率の問題や勤勉さの特質といったものを連想しますが、

「働くこと」=日本人のアイデンティティ

という観念はどこから生じてきたのでしょうか。勤勉が美徳とされるのは、むしろ西洋のプロテスタンティズムにおいてのほうが、はっきりしています。キリスト教においては原罪という日本にはない概念があります。

原罪とは神から離れてしまった状態

 神に帰るためには労働が必要であるとしたのがプロテスタント(特にカルヴァン派)の考え方です。ここで重要になるのは、労働はあくまで個人と神の間で生じる義務であることです。したがって、労働は神とつながるための手段に過ぎないということになります。そして、他人との関係は神を親とする兄弟姉妹の関係であるということです。相互扶助の精神の背後には、この揺るぎない論理があります。ここにはしっかりとした個人主義と兄弟主義が神を媒介として確立しています。

 日本には、キリスト教の言うところの神が存在しません。神との関係性がないため、ふらふらとした個人主義になってしまいます。このふらふら感は不安定な状態で、他者との関係性の中で安定を図ってきました。つまり絶対的な理念の根拠、よりどころがないのです。したがって、相互扶助の拠り所も、情緒的な良心です。また不安が大きくなると、集団主義の安定に頼ろうとしやすいです。

 このように揺れるアイデンティティを安定させるために、周囲との共通価値観である「働く」=「職業」を自ら第1のアイデンティティとするのではないでしょうか。また、兄弟姉妹という概念がないために、「助けてもらうこと」を恥とする意識が強いのではないかと思います。

 上記のようなことがすべてだとは言いませんが、日本人の仕事とアイデンティティの関係に少なからず影響しているのではと考えています。

ワークライフバランス考④「長時間労働とうつ」
 「つまり、労働時間そのものは減少しつつあるのもかかわらず、心のバランスを崩す人、うつ病に陥る人が急増しているということだ」精神科医の香山リカ氏の『「私はうつ」と言いたがる人たち』の一説です。おそらく、多くの人たちの長時間労働とメンタルヘルス(うつ病も含む)の関係性に対するイメージとして

長時間労働→メンタルヘルスに悪い(ワークライフバランス的に不健康)→うつ病などが発生する

という思い込みがあるのではないかと思います。どうも、長時間労働がワークライフアンバランス(ワーク>ライフ)の元凶であると考える人たちは、この思い込みが強いのではないでしょうか。

 もちろん、長時間労働はメンタルヘルスに悪影響を与えることは十分にありえることだと思いますが、そのことはあくまでメンタルヘルス悪化のきっかけのひとつにすぎないのではないかと思います。


 さて、この秋『生活者から見た働き方』というタイトルのレポートを、人財研の有志で発表するのですが、昨日その打ち合わせを行いました。白熱した議論が展開されたのですが、「豊かさ」とは何かという話題になったとき、あるメンバーが

豊かさとは選択肢の多さである
選択肢の多さは逆に選択の悩みを大きくしている


と熱っぽく語りました。私自身も、普段この事に関しては実感しているので「なるほど」と思いながら聞いていました。ここで、長時間労働とメンタルヘルスと豊かさの関係を考えてみたいと思います。

長時間労働が減る→自由に使える時間が増える→行動の選択肢が増える→選択の悩みが生じる

この論理が通るのならば、冒頭に上げた香山氏の疑問は、正論となります。そして、メンタルヘルスの問題(うつ病も含む)の真の原因キーワードは「悩み」という言葉になります。「悩み」を解消できない、すなわち「悩む力」が弱いことが問題なのです。香山氏も、この本の「おわりに」において次のように述べています。

(うつ病が現代増えている)最大の原因は「現代人は悩めなくなった」ことにあるのではないか、と私は考えている。

 以前の記事で姜 尚中氏の『悩む力』という本を取り上げましたが、ここにひとつの大きなヒントがあるのではないかと私は思っています。

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進む雇用のジャストインタイム
 本日、とある大手人材派遣会社の営業マンと話をしました。昨年末の金融危機から半年が経ちました。派遣の営業はいつも断っていたのですが、現在の雇用環境の情報を得たいと思いアポを取ったのでした。

 仕事は昨年の同時期の2~3割

私はこの事実に2つの点で驚きを感じました。

①やはり相当に雇用環境は厳しいということ
②仕事が2割に減っても派遣会社が存在しているということ


①に関しては誰しもが実感することだと思いますが、②に関しては派遣会社というビジネスモデルの特徴を改めて感じたものです。派遣会社は仕入れのいらないビジネスモデルであり、極端に言うと社員の給料と事務所費さえペイできれば赤字にはなりません。逆算すると昨年はかなり儲けていたのではないかと思われます。

 彼らと話をしていてもうひとつ驚いたのが、現在作業系派遣よりも、事務派遣のほうが厳しいということでした。特に、事務派遣のほうも契約期間の短期化が進んでおり、作業系の日雇い派遣と同じようにジャストインオーダーが進んでいるとのことでした。また、事務系のほうが単価の下落圧力が強く、作業系よりも安いということでした。これは考えてみれば当然のことです。

事務作業は間接部門であり、工場作業は直接部門です。

企業は業績が悪くなると、直接部門よりも間接部門の合理化を進めるものです。なぜなら、間接部門は会社の利益を直接生まない部門だからです。このことは作業系の派遣が広まる中で、

生産のジャストインシステム→雇用のジャストインシステム→間接部門のジャストインシステム

という考えに発展していったのではないかと推測されます。この考えをさらに進めると

正社員のジャストインタイム労働

に行き着くのではないでしょうか。関西大学経済学部教授の森岡孝二氏は著書『貧困化するホワイトカラー』の中で、派遣切りの次は正社員切りと述べています。企業は効率性を求める宿命があるかぎり、正社員も含めた雇用のジャストインタイムは進んでいくことでしょう。
自己との対話
 口論はどこから生まれるか。それは対話が成立しないところから起こります。対話の第一歩は相手の話を素直に耳を傾け、受けた内容に対する意見を述べる姿勢から始まります。今回の記事は、今日体験した対話が成り立たないいらだたしさとやまいもさんのブログ『大人の人生はおもしろいか』の「対話と自己」というエントリーに触発されて書いてみます。

 厄介な人、それは対話が成り立たない人のことです。対話が成り立たない会話は疲れるだけで、話はどこまでいっても平行線をたどるだけです。厄介な人の特徴として

①話を素直に聞かない
②話をすり替える
③同じことを何度も繰り返して言う


があります。このような人は

自分の胸に手を当てて考える

といったことをしない人なのでしょうか。彼らは「真実の姿」を敢えて見ようとしません。なぜなら、そこには必ず自信のなさやトラウマあるいは不都合といったものが存在するからです。

真実を見つめることができないということは、自己との対話ができないということです。自己との対話とは

第1レベル 反省、思索
第2レベル 瞑想
第3レベル 祈り


のように段階があると思います。私はまだ第1レベルです。厄介な人に影響を与えるようになるためにはさらなる自己との対話が必要だと思いました。
 
太宰治と情緒
 太宰治がここのところちょっとしたブームになっているようです。先日図書館に行ったときのこと。太宰治の特集が組まれていました。どうやら、今年の6月は太宰治の生誕100周年に当たるそうです。ところで、太宰治という人物が生誕100周年記念と、その業績を評価されるに値するかどうかということは人によってずいぶんと意見が分かれるのではないでしょうか。

太宰作品を学生のころはずいぶん読んだものでした。『斜陽』や『人間失格』と言った晩年の果てしなく絶望的な作品はさすがに好きではありませんでしたが、中期のユーモアと情緒豊かな作品を好みました。新潮文庫の黒で統一された表紙がとても魅力的で、商店街に昔からある書店の、ちょっと古ぼけた文庫棚から黒の太宰シリーズを手に取るのは無上の喜びでした。

 あれからもう十数年以上がたちましたが、学生時代のあるときから私は文学に別れを告げました。文学とくに日本の小説は人を幸せにできないと思うようになったからです。音楽や美術と文学は一線を画していると私は考えています。

 論理よりも情緒

太宰の作品に対して、私は論理よりも情緒を求めていました。太宰の作品は本当に情緒的だと思います。情緒的な要素は人の心に潤いを与えます。情緒的な要素のない世界はきっと理屈的で殺伐とした世界になるでしょう。しかし、論理のない情緒は、その針が負の方向にどんどん振れていくと、無秩序、すなわち退廃的でアナーキーな方向に暴走してしまう危険性もはらんでいます。

 太宰作品を好む日本人は情緒的な存在なのだと思います。太宰治の根強い人気をみて、私の心に浮かんだのが、次の2冊の新書です。

藤原正彦『国家の品格』(2005年)
鈴木光司『情緒から論理へ』(2009年)


 両者ともに、論理と情緒のバランスのとれた状態が望ましいとした上で、現代の日本人、社会には前者は論理よりも情緒、後者は情緒よりも論理の必要性があると説きます。確かに、

情緒のない論理だけの世界は潤いがない
論理のない情緒だけの世界は秩序がない

とてもいびつな世界になるでしょう。だから、私はどちらの主張も正論だと思っています。情緒が先か、論理が先かというのは「鶏が先か卵が先か」と言うのと同じ問題です。

論理は方向性
情緒は波動


であり、どちらも必要です。ただ、太宰作品を見ると、論理の大切さを感じてしまいます。今世の中は不況であり、全体的に先行きに不安を感じている人が多いと思います。そういう意味では、今の時代においては鈴木氏の主張のほうが説得力があると思います。

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失業のリスク
 年越し派遣村が開村してから半年。村の援助を受けた人たちに実行委員会が行ったアンケートと結果がまとまった。就労が確認できた人はわずか13人にとどまり、雇用をめぐる厳しい実態が浮かび上がる。(産経新聞)

 なかなか就職が厳しいようです。中には「仕事を選んでいるからだ」という厳しい指摘もありますが、現在の有効求人倍率は0.46倍で、完全失業率は5%です。当事者ではない人が想像する以上に厳しいのだと思います。

 派遣村は単身者がほとんどだと思いますが、所帯を持っている人にとっての失業は単身者よりリスクが大きくなります。

生活費
教育費
夫婦関係


リスクの針は大きく負の方向に振れるようになります。リスクとは直接的には経済的なリスクですが、間接的には心のリスクのほうが大きくなります。すなわち、

お金がないと心に余裕がなくなり、人間関係がぎすぎすしてくる

ようになります。特に夫婦関係は問題です。失業後どのようにするかというベクトルが一致していないと、夫婦間に口論が発生し、心が互いに離れていくようになります。よい結果が出ていればいいのですが、結果が出ない場合には、お互いが心を開いて、コミュニケーションを頻繁にとり、同じ方向性を向いていくことが必要だと思います。リスクにさらされたとき、どのような心理状態でそれに臨むかということが非常に重要です。一人で超えるよりも2人で超えるほうが何倍もの力が出るものです。

 理想的には「愛」は「金」よりも強いと思っていても、実際は「金」は「愛」よりも強いものです。このことを肝に銘じて普段から過ごしていくことが、リスク対処の大きなポイントだと思います。

 


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